最強の読書法


読みたい本を、読みたいときに、読みたいぶんだけ読み、てきとうに忘れていく。

以上です。


世の中には、「速読術で1日20冊を読む」とか、「内容を忘れるなら時間の無駄。完全に記憶する読書術」とか、セコい考え方がありますね。

そのセコさ、かたっぱしからワンナイトラブを繰り返して「100人斬り」とか自慢している人と同じ匂いを感じます。
なんか、セックスへの愛を感じないんですよね。ほんとうにしたいのか? セックス好きなのか?? って思っちゃう。


まあ、どういう読書をしようと個人の自由ですが、私の思う最強の読書法は、

①すぐに役に立てようと思わない
②忘れてもいいと思う

ということです。


たとえば晴れた日曜日の午後に散歩にいって、よく知らないパン屋に寄って帰ってくるように。

たとえば好きな人と寝る前にくだらない話をして笑いあい、だんだんとまどろんでいくように。

そういうのって、ぜんぜん役に立たないですよね。でも、気持ちがいい。

ああ、今日は、良い日だった、忘れたくないな、と思うけれど、翌朝にはおぼろげな記憶になっている。
西日のオレンジのキラキラとか、恋人の深爪とか、断片的に、なんとなく、覚えているだけ。


読書もそんな感じでいいと思うのです。
ああ、これはすてきだな、忘れたくないな、と思うけれど、翌朝にはおぼろげな記憶になっている。
言葉がもっていた雰囲気とか、最後の一文とか、断片的に、なんとなく、覚えているだけ。


記憶って、そういうものではないでしょうか。

その優しさにひたったり、あるいは儚さに怯えたり、私たちはそうやって生きていくんです。

また似たような晴れた日曜日の午後が到来したときに、ああ、前にもこんなことがあったな、あのときは焼きそばパンを食べたよな、あれは桜の季節だったな、などと思い出したり、思い出さなかったりします。

読書でも同じようなことがあったり、なかったり、します。

でも、そういうゆるいリフレインで、体に記憶が染みついていきます。




最近よく不思議なことが起きます。

むかし読んだ本を久しぶりにひらくと、いまの自分が思っていることと同じことが書いてあるんです。「こんなこと書いてあったっけ? これ、最近私が思いついたことのはずなのに…!!!」ってびっくりする。
でも、事実としては、昔読んだ本の記憶が、私の体にようやく染みわたった、ということなんだと思います。


本に書いてある文字面をそのまま暗記しただけでは、短期的な記憶で終わります。
すぐに役に立つことは、長い目でみれば、たいして役に立たない場合が多いです。


きちんと、散歩するように、ふらふらと、あてなく、読書を体験することで、なにかだいじなことが皮下に染みついて、毛細血管をとおり、指先をけだるくしびれさせ、やがて脳で「ひらめき」という花になります。

それが本を「体現する」ということです。

だから、あてのない散歩、恋、読書をできるひとは、最強なんです。

最強の読書法を実践して、あてなく、ぼんやり、生きていきましょう。