正しさという狂気/村田沙耶香『殺人出産』を読んで

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先日、結婚披露宴に出席し、学生時代の友人たちと久しぶりに再会した。
アラサーの女たちが集えば、しぜんと結婚や出産の話になる。披露宴の後に謎に高価なホテルの珈琲を飲みながら、自分たちの近況や、誰々が結婚しただの出産しただのという話で盛り上がった。

さいきんは「子どもいらないかも」「とりあえず、まだいいかも」という話をよく聞く。「痛そうだし」とか、「自分に人間を育てられるか心配」とか。「セックスが面倒くさい」と語る友人もいる。理由はそれぞれだが、「結婚はしても子どもはつくらない」というのは、いまは「DINKs」と名付けられて少し流行ってる価値観だ。

逆に、「子どもはほしいけど、結婚はしなくてもいいかも」という友人もいる。わりと稼ぎのいい友人は、卵子凍結を検討しているそうだ。若いうちに自分の卵子を病院で採取・保存してもらって、いざ産みたいとなったら、好きな男の精子体外受精させて、体に戻して出産するらしい。彼女によると、卵子凍結自体は数十万円~百万円くらいでできるが、いざ受精となるとさらにお金がかかるらしい。「でもそれまでに稼げばいいもんね?」と彼女。海外に住んでいることもあり、代理出産や家事代行も身近で、「お金さえあればおなかを痛めなくても大丈夫」と言っていた。

さいきん別居婚をした友人もいる。遠距離だが、夫婦ともに経営者ということもあり、なかなか転居する暇もないし、たまに会えればいいらしい。お金もあるから家賃負担などはあまり気にならないようだ(すごい)。まあそこまではいかなくても、「結婚はしたいけど同じマンションの別部屋に住みたい」などという声もよく聞く。たしかに生活距離があれば無用なケンカはしなくて済むから楽だと思う。

働いて自立する女性が増えた昨今、選択肢は無限に広がっている。地域やクラスターによってはまた違うのかもしれないが、私のまわりでは、結婚、とくに出産は「してもしなくてもいいもの」と認識されている感じだ。「何かメリットある?」という発言もよく聞く。そりゃ、ほぼメリットなんてないでしょう、と思う。「メリットを投げうってまでする」ということにロマンを感じられるか?というだけの話ではないか、もはや。ほとんど信仰である。

そう、信仰だ。恋愛やセックス、結婚、出産、そもそもメリットや合理性などないそれらにおいて、すべての理由は信仰にゆだねるしかない。「好きな人とするセックスは気持ちいい」「結婚は人生最大の幸せ」「自分の子どもが一番可愛い」。こういう言説はたしかに「社会的常識」だし、現に、彼氏ができたとか、結婚したとか、出産したとか、そうした報告を受けたとき、私たちは反射的に「おめでとう!」と祝う。もちろん実際にはその先にたくさんの苦しみが待ち受けていることを知っているが、「おめでたいこと」だと刷り込まれているから。それが常識を信仰しているということなのだ。

では、友人が近々殺されると知ったらどうだろうか?
泣いたり怯えたり、あるいは疑ったりするだろうが、「祝う」「感謝する」とはならないだろう。

村田沙耶香の小説『殺人出産』は、殺される人が祝われ、感謝されるのが「常識」とされる世界の物語である。




昔の人々は恋愛をしてセックスをして子供を産んでいたという。けれど時代の変化に伴って、子供は人工授精をして産むものになり、セックスは愛情表現と快楽だけのための行為になった。避妊技術が発達し、初潮が始まった時点で子宮に処置をするのが一般的になり、恋をしてセックスをすることと、妊娠をすることの因果関係は、どんどん乖離していった。

偶発的な出産がなくなったことで、人口は極端に減っていった。人口がみるみる減少していく世界で、恋愛や結婚とは別に、命を生み出すシステムが作られたのは、自然な流れだった。もっと現代にあった、合理的なシステムが採用されたのだ。


すこし長いけれど、時代背景の説明部分を引用してみた。どうだろう、ここまではかなり想像可能な未来という気がしないだろうか。冒頭に書いた私の友人たちの発言から考えると、<恋愛→セックス→結婚→出産>という、これまで「常識」とされていた一連の流れは既に崩壊しかけている。

その状況下で、命を生み出すための「もっと現代にあった、合理的なシステム」とは、以下のようなものである(これは引用ではなく私のまとめ)。

・志願すると「産み人」として、病院で人工授精・出産ができるようになる(男性も人工子宮を装着できるので、老若男女OK!)
・「産み人」の産んだ子どもはセンターに預けられ、育てたい人にもらわれていく
・「産み人」にはもちろん出産にまつわる健康リスクがあるが、10人子どもを産めば、かわりに誰か任意の1人を殺すことができる
・子どもを産まずに誰かを殺してしまった場合、死刑ではなく産刑という、一生子どもを産み続ける刑に処される
・人間の殺害欲求を、人口維持に使った合理的なシステムである
・殺される人は「死に人」とよばれ、社会のために亡くなったということで感謝され、盛大に送り出される


この「殺人出産システム」が常識となった社会においては、殺人は悪ではない。子どもが産まれ、社会が維持されるために合理性のある、善とされる行為である。

物語の途中で、「こんな社会はおかしい」と訴える女性が登場する。人が殺されるなんておかしいし、子どもを10人も産まされるなんておかしい。ちゃんと恋愛をして好きな人とセックスをして子どもを産みたい。それが正しいはずだし、この愚かな世界を妄信してるなんて愚かではないかと。

そんな彼女に「私」が放った言葉、

「特定の正義に洗脳されることは、狂気ですよ」

そう、これこそが、この物語の肝であり、村田沙耶香という作家の本懐である。

絶対的な正しさなんか存在しない。時代時代の社会がうみだした「常識」に左右される幻想である。そういう意味では、特定のひとつの正しさに洗脳され、盲目的に信仰すること自体が狂気なのだと言えるだろう。

殺人や出産というテーマの性質上、物語後半は生々しい展開となっていくが、最後はなぜか、圧倒的に清々しい。講談社文庫版でともに収録されている『トリプル』などの他短編も同じである。彼女の作品に共通する、グロテスクの先にある、妙な清々しさの正体とは、なんだろうか。
私はそれを「狂気だとわかっていながら、その狂気と一体になっていくことの、どうしようもない甘美」ではないかと思う。

村田沙耶香は、「正しさを信じることは狂っている」と物語を通して強く語りかけながら、かといって、「狂うな」とは絶対に言わない。

たとえ100年後、この光景が狂気と見なされるとしても、私はこの一瞬の正常な世界の一部になりたい。


正常は狂気の一種だが、裏を返せば、狂気も正常の一種なのだ。



コスパ」「メリット」などの言葉が頻繁に使われるようになったのはいつからだったか。社会は自由化・多様化とともに、着々と合理化の方向に進んでいるように見える。

さて、あらゆる娯楽が整備された時代に、傷つくリスクをおかしてまで好きな人と付き合う意味とは何だろうか。あるいは、自慰具やアダルトビデオが進化・多様化した時代に、リスクを負ってまで生身の人間とセックスをする意味は。男女間の賃金格差が縮まり、家業や墓を継ぐ強制力も弱まった時代に、他人と法の契りをしてまで結婚する意味は。いくらでも快楽のために恋愛やセックスを楽しみ、仕事も自由にできる時代に、健康上・経済上のリスクを負い娯楽を制限してまで出産をする意味とは。合理的に考えれば、こんなものはなくなっていくのが自然ではないか、という気もする。でも、本当に合理的な意味が、必要だろうか?

昔と比べて、いまの私たちには、多くの選択肢がある。人生を自分で選びとる権利がある。ただし、それは同時に「選択しなくてはならない」ということでもある。選ぶことは、いつだって、どの「正しさ」を信仰するか、つまり、どう狂うか、ということである。そういう意味では、結局なにを選んでも、それは狂気でしかない。

きっと私はいつだって非合理的な選択をするし、正しくなんかいられないのだと諦めつつも、信仰という狂気にずぶずぶに浸りながら、どうしようもなく甘美なセックスをするだろう。そうすることでしか生きていけないのだから。だって何もかもが狂っているでしょう。私だってあなただって。


殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

※ちなみにこれに収録されてる『トリプル』っていう3Pの話もすごくおもしろいのでおすすめです。ふたりで交際してセックスするのが異端になり、3人で交際するのが主流となった世界の話。順番に役割を決めて、ひとりの体中の穴に、あとのふたりが体のあらゆる突起物や体液を入れていくというセックス。エロすぎる。